「未来の自分」を想像する力
自己分析は「今の自分」だけではない
自己分析というと「今の自分はどんな人間か」を明らかにする作業だと思われがちです。しかし、自己概念には「今の自分」だけでなく、「なりうる自分」も含まれています。
「3年後にはリーダーとして活躍している自分」「英語を流暢に話している自分」「孤独で誰とも繋がれない自分」「健康を損なった自分」——こうした未来の自己イメージは、ぼんやりとした空想ではなく、心理学的に重要な機能を持っています。
希望と恐れが行動を動かす
私たちの行動は、「こうなりたい」という希望と「こうなりたくない」という恐れの両方に駆動されています。ダイエットの動機が「スリムになりたい」(希望)と「生活習慣病になりたくない」(恐れ)の両面から成り立つのと同じです。
この「なりたい自分」と「なりたくない自分」の心理学的概念が、可能自己(Possible Selves)です。
マーカスとニュリアスの「可能自己」理論
自己概念を「未来」に拡張する
可能自己の概念を提唱したのは、心理学者ヘイゼル・マーカス(Hazel Markus)とポーラ・ニュリアス(Paula Nurius)です。1986年の論文で、2人は自己概念を「過去から現在」だけでなく「未来の可能性」にまで拡張しました。
可能自己には3つの種類があります。
- 期待自己(Expected Selves):現実的に到達可能だと予測する未来の自分
- 希望自己(Hoped-for Selves):こうなりたいと願う理想の自分
- 恐怖自己(Feared Selves):こうはなりたくないと恐れる自分
マーカスは自己スキーマの研究でも知られますが、可能自己の概念は自己スキーマの「未来版」とも位置づけられます。今の自分を規定するスキーマだけでなく、未来の自分のスキーマも私たちの行動に影響を与えているのです。
可能自己は動機づけの源泉
マーカスとニュリアスの研究で重要なのは、可能自己が単なる「夢」や「心配」ではなく、行動の動機づけとして機能するという点です。具体的な可能自己のイメージを持つ人は、そのイメージに向かう(または遠ざかる)ための行動を実際に取りやすいことが示されています。
可能自己が行動を変えるメカニズム
アプローチ動機とアボイダンス動機
希望自己は「近づきたい」というアプローチ動機を生み、恐怖自己は「遠ざかりたい」というアボイダンス動機を生みます。この2つの動機はどちらも行動を促しますが、その質は異なります。
アプローチ動機(希望自己)による行動は、ポジティブな感情を伴いやすく、持続しやすい傾向があります。一方、アボイダンス動機(恐怖自己)による行動は、不安や緊張を伴いやすく、短期的には効果的でも長期的に消耗しやすいとされています。
価値観の明確化は、希望自己をより具体的に描くための作業とも言えます。自分が何を大切にしているかを知ることで、「なりたい自分」の輪郭がはっきりします。
可能自己の「バランス」が大切
研究では、希望自己と恐怖自己が対応している(バランスしている)状態が、もっとも動機づけ効果が高いことが示されています。たとえば「健康的な体の自分」(希望)と「不健康で疲れやすい自分」(恐怖)が対になっている場合、両方の動機が協力して行動を支えます。
どちらか一方しかないと、動機づけが弱くなるか、不安に駆動されるだけの苦しい状態になりかねません。
可能自己を活用するための実践
「なりたい自分」を具体的に描くワーク
1年後の理想の1日をできるだけ詳細に書き出してみましょう。朝何時に起きて、何をして、誰と会い、どんな気持ちで1日を終えるのか。漠然とした「成功している自分」ではなく、五感を伴う具体的なイメージにすることがポイントです。
次に、同じ要領で「なりたくない自分の1日」も書き出します。この2つを並べることで、希望と恐怖のバランスが取れた可能自己のセットが生まれます。
今の自分から可能自己への「架け橋」を考える
可能自己が行動に結びつくためには、「今の自分」と「なりたい自分」の間に具体的なステップが見えている必要があります。ゴールだけがあってプロセスが見えないと、学習性無力感に陥りやすくなります。
天職探しのプロセスでも、「理想のキャリア像」を持つだけでなく、「今週できる小さな一歩」を明確にすることが成功の鍵です。
MELT診断で可能自己のヒントを見つける
診断結果を「今の自分」の地図として使う
MELT診断の結果は「今の自分」の特性を示す地図です。可能自己を考える際には、この地図を起点に「この特性をもっと伸ばした自分」(希望自己)と「この特性が極端になった自分」(恐怖自己)の両方を想像してみましょう。
たとえば、共感力が高いタイプの人の希望自己は「相手の気持ちに寄り添える信頼されるリーダー」、恐怖自己は「他者の感情に振り回されて疲弊した自分」かもしれません。どちらも同じ特性から生まれる可能自己であり、どちらに近づくかは日々の選択にかかっています。
MELT診断の5カテゴリそれぞれについて可能自己を考えると、より多角的な自己理解と目標設定が可能になります。モチベーションのスイッチを見つけることにもつながるでしょう。
「今の自分」は通過点にすぎない
ナラティブ・アイデンティティの視点で言えば、今の自分は人生という物語の「途中のページ」です。可能自己は、まだ書かれていない次の章への見通しを与えてくれます。
性格変化の科学が示すように、人は変化し続ける存在です。MELT診断の結果を「固定された自分」としてではなく、「ここから始まる可能性」として受け取ることで、より豊かな自己成長のストーリーを描くことができるでしょう。
この記事のまとめ
- 可能自己とは「なりたい自分」「なりたくない自分」「なりそうな自分」の未来の自己イメージ
- マーカスとニュリアス(1986)が自己概念を未来にまで拡張する概念として提唱した
- 希望自己と恐怖自己のバランスが取れているとき、もっとも動機づけ効果が高い
- 具体的なイメージと今の自分からのステップを明確にすることが行動につながる
- MELT診断の結果を起点に、各特性の希望自己と恐怖自己を想像するのが有効
参考文献
- Markus, H., & Nurius, P. (1986). Possible selves. American Psychologist, 41(9), 954-969.
- Markus, H., & Nurius, P. (1986). Possible selves. [PsycNET Record]
- McAdams, D. P. (2001). The psychology of life stories. Review of General Psychology, 5(2), 100-122.
- Personality - American Psychological Association (APA)